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付きまとう偽善

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   みなさんこんにちは。この写真はオカンがわざわざ僕とお酒を飲むためだけに買ってきたコップです。なんだか素敵です。底の抜けたコップで海を掬っているようにも見えるし、夏の匂いを閉じ込めてしまったかのようにも見えます。夏が恋しいですね。  今日は自分の中でもスッキリしていないことを文章にしてみます。実は小中学生、高校生を対象とした、学生寮が運営する学習ボランティアに携わって1年半が経とうとしているのですが、「偽善」が影のように僕の後ろに付きまとっているようでなりません。  偽善って何だろう、僕が偽善を感じる時は24時間テレビで出演者が涙しているときや、災害ボランティアの人たちが自己陶酔してる場面です。善意という絵の具で塗られた仮面の裏に何か別の目的や意図が見え隠れしている時、目を背けたくなります。  じゃあ自分はそんな彼らに石を投げられる立場なのか?きっと答えはノーだと思います。確かに僕はやる気があってもなかなか定着しない高校生にあの手この手を使って、精一杯勉強を教えました。でもその裏に「自分の経験値になったらいいな」「学生寮のイメージが良くなればいいな」という思いがあったのもまた真なりです。このボランティアに携わる中で自己陶酔をしていた自覚はないですが。  ここで僕は偽善者なんかじゃない!と叫びたいわけじゃなくて、自分の行動原理を見直す機会になればいいなあと思い、文章にしてみた次第であります。  おそらく誰にでも偽善の影は付きまとうんじゃないでしょうか。僕はその影から目を背けずにいたいです。

あんな夏もう見たくない

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   みなさんこんにちは。立春が過ぎたということで段々と暖かくなってきました。町を散歩していると所々で春を感じます。モノクロから彩りを感じさせる梅の木とか、春風が頬を撫でる感じもいいですね。蕪村が「春風や堤長うして家遠し」と歌った春が待ち遠しいです。  今日は裏切り者について書こうと思います。夜中の布団の中で、世の中の人みんな裏切り者なんじゃないか?と。きっと自覚していないんだろうけど。知らないうちにいろんな人を裏切ってそうだなあって。  友人に、恋人に、「信じてたのに裏切られた」と聞きますが、僕はそんなの自分勝手だと思うんです。「信じてた」ってその友人や恋人、いろんな人を勝手に期待していただけなんじゃないか?って。もしその期待が外れたり、自分の思い通りにいかなかったりした時、その時大声で喚くんです。「信じてたのに!裏切られた!」って。  「裏切り」って「自分が見えてなかった、わからなかった相手の側面が見えた、わかったこと」だと思います。もし自分が裏切られた時は、自分のほうを振り返ってきた相手のその側面を頭ごなしに「こうだ」って決めつけるんじゃなくて、じっくり観察してみればいいなあと思います。  三年前の夏に渡せなかった花籠を裏切りの象徴としてきた自分を少しだけ恥ずかしく思いました。  

紙の温度

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  みなさんこんにちは。 最近は家にいる時間がとても長いです。居心地のいい筈の部屋から、まるで僕を出させてくれないかのような圧迫感。ある雨の日に部屋を飛び出したくなって原付で夜道を走り回りました。23時の夜道が全部僕のものになりました。深く息を吸い込んだとき、少しだけ心が晴れた心地がしました。 さて今日文章を書いたのもブログのタイトルを変えたからです。 「コダック好き北大生の何でもありブログ」 投稿するたびに目に入るのですが、こっぱずかしくて見ていられません。急に自己啓発に目覚めた意識高い系の勘違い大学生みたいじゃないですか。ということでシンプルなタイトルに変えました。 「紙の温度」 僕はこうしてパソコンで文章を書いていますが、紙に自分の好きな万年筆やペンで文章を書くのも好きです。そしてその紙に閉じ込められた文章は他の人の目に触れることはありません。(もしかすると誰かがこっそりのぞき見していたかもしれません。) 情報化社会が進む中で、物や人の価値は他者の評価によって否応なしに決めつけられてしまいます。そんな世界の中でも僕は自分だけの価値、他者が関与しない絶対的な価値を大切にしたいです。とまあそんな文章をブログに書いて、拡散してるわけですから矛盾していますけど。そういう皮肉を込めて「紙の温度」を忘れずに、これからも気が向いたら文章を書いていきます。

「普通」は存在しない

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 みなさんこんにちは。愛知は暖かくていいですね。 この前高校の近くの家屋が取り壊されていて、庭先の松の木が倒れていました。 その横を原付で走り抜けた時に松の香りがふわっとしたんです。 その香りが印象的で、まだ生きたいと強く願っているように思えました。 全然知らない松の木の、今までの生があふれていて美しい瞬間でした。 さて今日は最近よく考えることについて文章を書いてみます。 自分は高校地歴の教員を目指しており、現在勉強中です。 ある日指導案を書いてきてくださいという課題が出されました。 いざ自分で授業をオーガナイズしてみると案外難しかったです。 というのも、僕が思い描く授業の在り方は「普通」のそれとはまったく違うからです。 おそらく皆さんが描く「当たり前」の授業は机が並んであって黒板に向かってみんな座っているのを想像するでしょう。 そして先生が淡々と講義をしていくような、そんな授業かと思います。 僕が思うにそういう授業は 目的のための手段として最適でない と思います。 理想は各々の生徒が個別の学習状況に合わせて学び、教員がそれをサポートするようなあり方です。 僕は学校に行く目的は生徒がより豊かに生きるために活動することだと考えています。 そしてその手段が一方的な知識伝達や、教員の自己満足のような授業であってはならないと思います。 きっと大切なことは 「当たり前を疑う」ことや「手段と目的を間違えない」こと だと思いますが皆さんはどのように考えていますか。 これは違うとか、賛同できるとかあったら是非ご連絡ください。

綺麗なものが見たくて

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 みなさんお久しぶりです。このブログの画面を起こすのも何ヶ月ぶりでしょう。今僕は愛知の実家に帰省していて、ほとんど一人暮らしみたいな生活をしています。  今日は僕の心の中のことを書いてみようと思います。つい先日成人式とやらがありました。他の自治体ではオンライン開催や延期になるところ、僕の地元では普段通り行われました。その成人式とやらでは皆精一杯のお洒落や飾りをして出席します。僕もスーツで出席しました。  僕は彼らを見てなんだか不思議な感覚になりました。 「一見すると綺麗なんだけど綺麗じゃない。」 なんだか皆薄っぺらいなあ、虚栄だなあと感じてしまうのです。(きっと僕はそうとう捻くれてて、おかしなやつなんだろう。) そんな 僕は深みのある人こそが「綺麗」だと思ってしまうのです。 そんな思考の中で数少ない深みのある友人を大切にしなければならないと痛感しました。 話が変わりますが、写真の趣味を始めました。今まで瞬間だけを切り取った写真に不気味なものだと言う烙印を押していた節がありました。最近は瞬間しか写らないからこそ解釈の余白が広いと言うか、和歌のような美しさがあると感じています。また機会があれば写真のことについても話していきます。それでは!

ブログスタートしました

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はじめまして。愛知出身現役北大生の 大嶽航希(おおだけこうき) です! 軽く自己紹介をしておきます。 僕は体育会サッカー部に所属しています。ポジションはGKです。 好きなものはポケモン、サッカー観戦、読書、歴史などいろんなものに興味があります。 このブログで僕が思ったこと、発信したいことを多岐にわたって書いていこうと思います。 よろしくお願いします! 大嶽航希