「普通」は存在しない
みなさんこんにちは。愛知は暖かくていいですね。
この前高校の近くの家屋が取り壊されていて、庭先の松の木が倒れていました。
その横を原付で走り抜けた時に松の香りがふわっとしたんです。
その香りが印象的で、まだ生きたいと強く願っているように思えました。
全然知らない松の木の、今までの生があふれていて美しい瞬間でした。
さて今日は最近よく考えることについて文章を書いてみます。
自分は高校地歴の教員を目指しており、現在勉強中です。
ある日指導案を書いてきてくださいという課題が出されました。
いざ自分で授業をオーガナイズしてみると案外難しかったです。
というのも、僕が思い描く授業の在り方は「普通」のそれとはまったく違うからです。
おそらく皆さんが描く「当たり前」の授業は机が並んであって黒板に向かってみんな座っているのを想像するでしょう。
そして先生が淡々と講義をしていくような、そんな授業かと思います。
僕が思うにそういう授業は目的のための手段として最適でないと思います。
理想は各々の生徒が個別の学習状況に合わせて学び、教員がそれをサポートするようなあり方です。
僕は学校に行く目的は生徒がより豊かに生きるために活動することだと考えています。
そしてその手段が一方的な知識伝達や、教員の自己満足のような授業であってはならないと思います。
きっと大切なことは「当たり前を疑う」ことや「手段と目的を間違えない」ことだと思いますが皆さんはどのように考えていますか。
これは違うとか、賛同できるとかあったら是非ご連絡ください。
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